柴田勝家が城主の頃に建造されたもので、北半分は木材、南半分は 石材で出来ていた。このとき勝家は、石工頭の勘助に、石材四十八本 を切り出すように命じ、もし期限までに納付しない場合は、死罪に処す ると申し渡した。ところが、四十七本は切り出したが、残りの一本ははど うしたことか寸法が少し短くて柱に適しなかった。期限が迫り、勘助はた だ死を待つのみであった。
勘助には病気の母がいた。母は勘助の悩んでいる様子を見て、こう いった。 「私の命は残り少ない。用意した石棺の中に生きたまま入れてくれ。そ の石棺を台にして柱を立てれば、寸法の不足を補うことができる。」
といってみずから人柱になることを望んだ。勘助は泣きながら母の意に 従った。この人柱は、水際から西南二本目の柱だといわれている。(越 前若狭の伝説より) |